「個人事業主の所得が900万円を超えたら、法人化しないと損をする」
「900万円の壁を意識して、所得を調整している」
個人事業主やフリーランスの間で、まことしやかに囁かれる「年収900万円の壁」。所得税の税率が大きく変わるこのラインを意識し、多くの事業者が法人化のタイミングを計ったり、あるいは成長を抑制したりしているのが実情です。
しかし、この「900万円の壁」という通説は、本当に正しいのでしょうか? そして、法人化することで、実際に手取り額はどれくらい変わるのでしょうか?
この記事では、具体的な数値シミュレーションを通じて、「年収900万円の壁」の真偽を徹底的に検証します。さらに、個人事業主のままでいる場合と、法人化して同額の役員報酬を受け取る場合とで、税金と社会保険料の負担がどのように変化するのかを比較分析し、経済合理性に基づいた「法人化すべき本当のタイミング」について、専門家の視点から深く掘り下げて解説していきます。
「年収900万円の壁」の正体:なぜそう言われるのか?
まず、なぜ「900万円」という数字が一人歩きしているのか、その背景にある所得税の仕組みを理解しておきましょう。
日本の所得税は、所得が多くなるほど税率が高くなる「累進課税制度」を採用しています。その税率が変わる区切り(ライン)の一つが、課税所得900万円なのです。
- 課税所得695万円超 900万円以下 の部分の所得税率 → 23%
- 課税所得900万円超 1,800万円以下の部分の所得税率 → 33%
このように、課税所得が900万円を超えると、その超過部分に対して適用される所得税率が10%も急にアップします。これに住民税(約10%)を加味すると、税率の壁はさらに大きく感じられます。この「税率が急上昇する」というイメージから、「900万円を超えると損をする」「900万円以下に抑えるのが最もお得」という通説が生まれたのです。
「900万円の壁」は幻想?数値で見る、税・社会保険料負担の真実
では、実際に所得が増えるにつれて、税金や社会保険料の負担率はどのように変化するのでしょうか。巷で言われるように、900万円を境に急激に負担が増加するのでしょうか。
ここでは、個人事業主の事業所得(売上から経費を引いた利益)が400万円、600万円、800万円、1,000万円の4つのパターンで、税金と社会保険料(国民健康保険・国民年金)を合わせた総負担額と、所得に対する負担率をシミュレーションしてみましょう。
【シミュレーション前提条件】
- 単身者、40歳未満
- 青色申告(65万円控除)
- その他所得控除として、小規模企業共済(年間84万円)、基礎控除(48万円)を適用
【個人事業主の所得別・負担額シミュレーション(概算)】
事業所得 | ①社会保険料 | ②所得税 | ③住民税 | ④個人事業税 | ⑤合計負担額 (①+②+③+④) | 所得に対する負担率 (⑤÷事業所得) |
400万円 | 約48万円 | 約12万円 | 約22万円 | 約5万円 | 約87万円 | 21.8% |
600万円 | 約63万円 | 約38万円 | 約41万円 | 約15万円 | 約157万円 | 26.2% |
800万円 | 約80万円 | 約75万円 | 約59万円 | 約25万円 | 約239万円 | 29.9% |
1,000万円 | 約97万円 | 約118万円 | 約77万円 | 約35万円 | 約327万円 | 32.7% |
(※各種保険料・税額は簡略化しており、実際の金額は個人の状況や自治体により異なります。)
シミュレーションから見える真実
この結果を見ると、確かに所得が増えるにつれて負担率は上昇しています。しかし、その上がり方はどうでしょうか。
- 600万円 → 800万円:負担率は26.2%から29.9%へ、約3.7ポイント上昇
- 800万円 → 1,000万円:負担率は29.9%から32.7%へ、約2.8ポイント上昇
巷で言われるように、900万円の壁を境に、負担率が「急激に」跳ね上がっているわけではないことが分かります。所得の増加に伴い、負担率はなだらかに上昇しているのです。
なぜなら、国民健康保険料の負担が増えることで、社会保険料控除額も大きくなり、税金の計算基礎となる課税所得の増加が緩和されるためです。
結論として、「900万円の壁」を過度に恐れ、事業の成長を抑制することは、経済合理性に欠けると言えるでしょう。
法人化シミュレーション:個人事業 vs 法人、手取りはどっちがお得?
では次に、個人事業主の事業所得を、そのまま法人化して全額役員報酬として受け取った場合、税・社会保険料の負担はどう変わるのかを比較してみましょう。
【法人化した場合の負担額シミュレーション(個人側のみ・概算)】
役員報酬(年額) | ①社会保険料(個人負担) | ②所得税 | ③住民税 | ④合計負担額 (①+②+③) | 役員報酬に対する負担率 (④÷役員報酬) |
400万円 | 約60万円 | 約4万円 | 約8万円 | 約72万円 | 18.0% |
600万円 | 約90万円 | 約18万円 | 約31万円 | 約129万円 | 21.5% |
800万円 | 約120万円 | 約38万円 | 約56万円 | 約214万円 | 26.8% |
1,000万円 | 約145万円 | 約62万円 | 約84万円 | 約291万円 | 29.1% |
(※法人に利益は残さず、全額役員報酬として支給する前提。役員報酬は給与所得控除が適用されるため、税額が個人事業主の場合と異なります。)
個人側の負担だけを見ると…
このシミュレーション結果を見ると、どの所得水準においても、法人化して役員報酬として受け取る方が、個人側の税・社会保険料の合計負担額は少なくなっています。
所得1,000万円のケースでは、個人事業主の負担額約327万円に対し、法人の役員報酬の場合は約291万円となり、約36万円も負担が軽減されています。
これは、
- 役員報酬に適用される「給与所得控除」の効果が大きいこと。
- 社会保険(健康保険・厚生年金)に加入することで、国民健康保険料の負担がなくなること。
- 役員報酬には「個人事業税」がかからないこと。
などが主な理由です。
「それなら、すぐにでも法人化した方が得じゃないか!」と思われるかもしれません。しかし、ここには大きな「見えないコスト」が隠されています。
法人化の最大の壁:「会社の社会保険料負担」という見えないコスト
法人化した場合、社会保険料は役員個人だけでなく、会社も同額を負担しなければなりません。この「会社負担分の社会保険料」こそが、法人化の損得を判断する上で最も重要な要素です。
先のシミュレーションで、役員報酬1,000万円の場合、個人の社会保険料負担は約145万円でした。これに加えて、会社も同額の約145万円を負担する必要があるのです。
- 個人側のメリット: 約36万円の負担減
- 会社側のデメリット: 約145万円のコスト増
差し引きすると、トータルでは約109万円もの負担増となってしまいます。
つまり、個人の手取りだけを見ると法人化が有利に見えても、会社のコストまで含めたトータルで考えると、安易な法人化はむしろ損をしてしまう可能性が高いのです。
では、いつ法人化すべきか?「損益分岐点」を見極める
では、この「会社の社会保険料負担」という大きなコストを吸収し、なおかつ法人化のメリットを享受できるようになるのは、一体どのタイミングなのでしょうか。
これには明確な答えはありませんが、一つの考え方として、「法人化による税務上のメリットが、社会保険料の会社負担増というデメリットを上回るポイント」を見極める必要があります。
法人化による税務上のメリット
- 個人の所得税・住民税の軽減
- 法人税の節税(800万円以下の軽減税率活用、各種節税策の活用など)
- 消費税の免税期間の活用可能性
これらのメリットは、会社の利益水準や、活用できる節税策によって大きく変わってきます。
総合的な判断基準
- 利益体質の確立: まず、個人事業主として安定的に高い利益を出せる体質を確立することが大前提です。法人化に伴う社会保険料負担(年間100万円以上)を、コストとして吸収できるだけの収益力が必要です。
- 所得水準の目安: 様々なシミュレーションを考慮すると、やはり「年間所得が安定的に1,000万円を超える」という水準が、法人化を本格的に検討する一つの大きな目安となります。このレベルになると、法人税率の有利性や、活用できる節税策の幅も広がり、社会保険料負担増のデメリットを上回るメリットを享受しやすくなります。
- 所得以外のメリットの重要度: 社会的信用力の向上や、資金調達の円滑化など、所得以外のメリットをどれだけ重視するかによっても、最適なタイミングは変わってきます。
安易に「所得900万円を超えたから」と飛びつくのではなく、自社の収益力、将来の事業計画、そして法人化の目的を総合的に勘案し、税理士などの専門家と具体的なシミュレーションを行った上で、慎重に判断することが不可欠です。
目指すべきゴール:富裕層への道筋
「900万円の壁」に囚われ、成長を止めてしまうことは、結果として裕福になる機会を自ら放棄していることになります。世の中の富裕層が、自身の所得を900万円に抑えているでしょうか?答えは明白に「ノー」です。
真に経済的な成功を目指すのであれば、そのプロセスは以下のようになります。
- 個人事業で、まずは所得1,000万円を安定的に超えることを目指す:
節税を考える前に、まずは圧倒的に稼ぐ力を身につけることが最優先です。 - 最適なタイミングで法人化する:
所得が安定し、法人化のメリットがデメリットを上回るタイミングで、戦略的に法人成りを行います。 - 法人として、さらに利益を最大化する:
法人という器を活かし、より大きな事業展開、資金調達、人材活用を進め、利益をさらに拡大させます。 - 法人と個人の最適な所得配分を行う:
会社の成長ステージや、事業承継などの将来計画に合わせて、役員報酬や役員賞与、配当などを組み合わせ、トータルでの手残りが最大になるように所得を設計します。 - 余剰資金を賢く資産運用する:
事業で得た資金を、個人の資産として、あるいは法人の余剰資金として、賢く資産運用に回し、さらなる富を築きます。
「900万円の壁」は、ゴールではなく、次のステージに進むための、ほんの通過点に過ぎないのです。
まとめ:「900万円の壁」は気にするな!目指すべきは、その先の成長と最適化
個人事業主が法人化を検討する際、巷で言われる「年収900万円の壁」は、一つの参考にしかなりません。むしろ、その数字に囚われることで、事業の成長機会を逃してしまうリスクの方が大きいと言えるでしょう。
法人化を成功させるための判断フロー
- 「900万円の壁」は幻想と心得る: 所得の増加に伴う税・社会保険料負担は、なだらかに上昇する。急激な負担増を恐れて成長を止めるのは本末転倒。
- まずは稼ぐことに集中する: 個人事業主として、安定的に所得1,000万円以上を目指せる事業基盤を築く。
- 法人化のメリット・デメリットを総合的に比較する: 個人の手取りだけでなく、「会社の社会保険料負担」という最大のコスト増を必ず考慮に入れる。
- 専門家と具体的なシミュレーションを行う: 自社の状況に合わせて、法人化した場合のトータルの損益分岐点を正確に把握する。
- 所得以外のメリットも勘案する: 社会的信用力、資金調達、人材採用など、非金銭的なメリットも加味して、最適なタイミングを判断する。
法人化は、あなたの事業を新たな高みへと導くための強力な手段です。しかし、それは適切なタイミングで、正しい知識に基づいて行われてこそ、その真価を発揮します。
「壁」を恐れるのではなく、その先にある大きな可能性を見据え、戦略的に法人化という選択肢を検討してください。この記事が、そのための正確な羅針盤となることを願っています。